明治41年(1908)7月、農商務省官吏だった柳田國男は2か月にわたる九州視察の途中椎葉(しいば)村(そん)に足を伸ばした。宮崎~熊本県境の文字どおり「秘境」であり、こんにちでも気軽に行けるところでない。当時、日向市から馬車を乗り継いで2日がかりだった。
学究官僚だった柳田は、平地の農民を念頭に理想主義的な独立自営農家の実現を説き続けていたのだが、この旅行の前半、阿蘇の旧家で見た狩猟の絵に感じるところがあって「山地」の農民や「焼き畑」農業を見聞すべく椎葉行きとなったものである。
1週間の滞在中、村内をくまなくまわり、古文書(こもんじょ)を渉猟(しょうりょう)した。その際目にとまったのが秘伝書『狩之巻』だった。通読した柳田は、この山中に「古日本風気精神」を残した「ユートピア郷」のあることを知った。
明治42年に『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を出版するが、これは翌年の『遠野物語』とともに、柳田民俗学の出発点となった文献である。椎葉滞在は民俗学者への転換点だったのだ。
『後狩詞記』は、基本的には狩猟文化に関する学術書である。それも、副題「日向國奈須(なす)の山村に於て今も行はるる猪狩の故實(こじつ)」が示すとおり、イノシシ猟がテーマとなっている。
(1)弥生時代に伝わった稲作によって「瑞穂(みずほ)の国」となった、(2)農民は米作を強いられたうえ徴発されて貧しく、ヒエやアワで飢えをしのいでいた、(3)農民の間の争いが絶えなく、平穏な生活がなかった、(4)銃砲の保持はきびしく制限されていた――という「未開農業国」像が、一般国民と同じように刷り込まれていたのを、椎葉村の「山人」たちが一新したのである。
イノシシ猟におけるチームワークの形成、獲物の配分、紛議の調停法がきちんと定められていることに柳田は感動している。
いっそう重要なのは、狩猟自体「神事」であり、「楽しみ」でもあったという気づきと、プラス思考である。
この際、わが国の狩猟伝統をかえりみるとともに、これからの「ジビエ文化」構築に自信をもって臨みたい。
(2021年4月)